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エウレカセブン考察追記

2019年12月13日

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エウレカセブン最終回の感想で、ニルヴァーシュとジ・エンドについて「うーん、なんでしょうねえ(誰か教えて教えて!)」と書いたら、さっそくコメントくださった方がいらっしゃいました! あ、ありがとうございます! ご意見、興味深くうかがいました。お返事はまたのちほどしたいと思います。
頂いたコメントのことが刺激になって、朝っぱらからそのことを考えていました。電車の車窓からぼんやり外を眺めていたら、ニルヴァーシュってニルヴァーナ(涅槃)に言葉の響きが似ているなあと、今更ながらに気がつきました。最終回でニルヴァーシュが「悟り」という言葉を使っていることからも、この単語の音の類似は偶然ではないですよね?
で、辞書を引いてみたら、

【涅槃】
〔仏〕(梵語nirvana 吹き消すこと、消滅の意)

1)煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地。
2)仏陀または聖者の死。

(本当のニルヴァーナの綴りは、一つ目のaの上に-がついて、二つ目のn下に.をつけたものですが、変換できないのでとりあえずこれで)

仏教のこともよく知らないので、ニルヴァーシュがニルヴァーナと関係あったとしてその意味合いがどのように意識されたものか、きちんとした回答はできないのが残念。が、無知なりに上記の意味合いからあれこれ考えてみました。
途中まで「です・ます」調で書いてたんですが、書きにくくなったので硬めの文体で失礼します。

≪パイロットとの関係≫
ニルヴァーシュら機体とパイロットについて分っていることを箇条書きにしてみると、
○機体は通常、唯一のパイロットにしか動かすことができない。
○パイロットと機体は交感している。
○パイロットの精神的変化に姿形・能力が影響される。

ニルヴァーシュたちは人間ならば誰でも乗れるのではなく、乗る人間を選び、そのパイロットと限りなく精神的にも肉体的にも寄り添う者達であるように思える。そして最終回をみて、ニルヴァーシュらがいわゆる「機械」ではないと確信。しかし、依然として彼らの正体は謎である。
ニルヴァーシュもジ・エンドも、ただの無機質な機械でないことは最終回で明らか。ジ・エンドについては初登場時からコックピット内の眼球のようなものが動くなど、ニルヴァーシュより有機的な雰囲気を持っていた。
ニルヴァーシュらはパイロットを選ぶ。レントンがニルヴァーシュを操れたことに対し、周囲が驚いたのはそのためである。結局最後まで、エウレカとレントン以外にニルヴァーシュを動かせた者はいない。
では、パイロットの素質とは何か。優れた身体能力が必要ではあるが、それは決定打ではない。おそらく、並大抵の努力でどうにかなるものではなく、なんらかの先天的な肉体的な問題があると思われる。その先天的な肉体とは何かといえば、コーラリアンであることではないだろうか。推測するに、ニルヴァーシュら機体は人型コーラリアンとともに送り出されていると考えられる。大地から生まれるという意味では、ニルヴァーシュもコーラリアンの一種なのかもしれない。
パイロットの素養=コーラリアンであること、誕生とともにパイロットとセットであることを前提とすると、ではジ・エンドは一体どのように生まれたのかが気になるところ。ニルヴァーシュとともに生まれた(発掘された)エウレカと違って、アネモネは人間でありながらコーラリアンに近い状態に強制的にもっていかれた状態でパイロットを務めていたわけで、ジ・エンドの生まれながらのパートナーではない。とすれば、ジ・エンドは独りきりで生まれたということか。その独りの孤独がアネモネの孤独と交感して上手くいったということだろうか。
レントンが初期のころ(中盤?)でパイロットとして受け入れられたのは、正規パイロットであるエウレカがレントンに心を開いたからと思われる。初期のころ、エウレカはよく「君が一緒だとニルヴァーシュが喜ぶ」というようなことをいっていたが、あれは無意識の部分でエウレカがレントンと一緒にいることが嬉しいと感じていたことに他ならないのはないだろうか。
レントンへの気持のように、エウレカの好意とニルヴァーシュの好意が重なる、感情を共有した状態が常とするならば、途中、エウレカとニルヴァーシュの息が合わなくなっていく過程に込められた意味は興味深い。大地と一体化したコーラリアンの一部であるエウレカは、大地から切り離され、それでいて人間にはなれないという孤独をずっと抱え続けるけれど、レントンと出会ったことにより、大地の一部であったエウレカが一人の独立した意思をもつ存在=人間となっていく。その工程を深いところで最もよく表わしているのはニルヴァーシュとエウレカの描き方だと思う。分りやすい表層的な部分はレントンとの関係で描き、エウレカ個人の内的なところはニルヴァーシュに託されている気がする。
つまり、ニルヴァーシュとはもう一人のエウレカであって、それはレントンを選んだエウレカとは別人でもあるということ。ニルヴァーシュと離れることは、エウレカが自分が自分である大元の何かを切り捨てることであり、ニルヴァーシュと一心同体の状態ではレントンと一緒いることはできない。最終回前あたりでは、エウレカはレントンと一緒にいたいと決断する。ニルヴァーシュでもレントンでも、そのどちらを捨てるものつらいけれど。が、身を斬られるような寂しくて怖くて悲しい選択すら、願えば全てが失われると知ったエウレカは、レントンや子供たち、ニルヴァーシュとも分れ、一人で去っていってしまったのではないだろうか。その後、レントンが立ち上がってエウレカを救いに行ってくれたのは本当によかった! だらだらと文を綴りながら、ますますその思いが強くなった。
あと、レントンと一緒に第3の道を選択するエウレカが「レントンとなら、耐えられる」というのは、やはり彼女がどの道を選んでも身を引き裂かれる思いだったからではないかと推測。
上述のように、機体とパイロットが一心同体である象徴として、最終回はニルヴァーシュの瞳がレントンとエウレカそれぞれの瞳の色を反映したオッドアイになっていたと考えられる。
しっかし、考えるほどにわけがわからなくなってきた。

≪ニルヴァーシュとジ・エンドの形態について≫
結論からいえば、ニルヴァーシュとジエンド、実はどちらも同じ存在なのではないだろうか。ジ・エンドは初印象があまりに恐ろしいものだったので、その先入観からニルヴァーシュは正統・善・平穏、ジエンドは邪道・悪・暴力というイメージがついてまわったが、実は両者は同じもので、最終的に変化した真っ白な姿が本来の彼らの姿ではないだろうか。ジ・エンドが白く変化したあと、ニルヴァーシュまでがほぼ同じような(というか、正直な所違いがわからない)最終形態に変化したことが、そう思う一番の理由。もし根本から違う種類の存在ならば、ジ・エンドとニルヴァーシュでは最終形態で全く違う形をとった気がする。そもそも、「ジ・エンド」も「ニルヴァーシュ」も人間が命名した名前だろうから、分類は人間側で意図的に(主にデューイの)行われたことと推測できる。
ジ・エンドとニルヴァーシュが同じものではないのかと思った大きな理由がもう一つ。それは最終形態ニルヴァーシュとジ・エンドの内部構造の類似。最終形態ニルヴァーシュのコックピットの造りは、まさしくジ・エンドの白バージョン。
この点について考えられる可能性は3つ。ひとつは、登場当時から完成形に近かったであったジ・エンドは、ニルヴァーシュよりジ・エンドの方が圧倒的に優ったものであったということ。もうひとつは、ジ・エンドはニルヴァーシュより初期に世界に送り出された機体であり、ニルヴァーシュはそれとはあえて違う模索を道を示した機体であるということ。(といっても、ジ・エンドたちについての細かい設定は忘れてしまったので、勘違いの可能性も大きいけれど……)みっつめは、ジ・エンドは先に世界におくりだされ、ニルヴァーシュが徐々に形を変えていったように、少しずつ変化し、行き着いた姿であったというもの。
すべては推測にすぎないが、初期ジ・エンドがニルヴァーシュより優れた戦闘能力を持っていたのは確か。ただし、次々に姿を変えるニルヴァーシュとは対照的に、ジ・エンドは最後の最後になるまでその姿を変えることがない。だが、エウレカとレントンの変化に置いてきぼりをくわされたアネモネが不安がり焦燥にかられたように、ジ・エンドもまたニルヴァーシュの変化に戸惑いと焦りを感じていたのではないだろうか。ジ・エンドには、その姿が完成形に近いからこそ、変化できぬもどかしさや苛立ち、絶望があったように思える。そしてそのような負の感情の全てはアネモネと共有されていたのではないだろうか。アネモネがジ・エンドに乗るのを嫌がりながら、同時にジ・エンドに縋っていたのは、変化のできない自分への絶望と嫌悪を共有できる唯一の相手だったからと思えた。
ジ・エンドは完成形に近い、と書いたがだからこそ、その優越感とともにこれからいくらでも変化しうるニルヴァーシュに憎悪とも羨望ともつかないものを感ずるのではないだろうか。なぜなら、完成形にいくらちかくとも、それは決して完成形そのものではないのだから。目標も目前にしながら決してたどりつけない絶望というのがあったと思う。そのうえ、いくら完成形に近いといっても、ニルヴァーシュのように二つあった座席が一つになるのと、始めから一人の枠しかなかったというのでは大きく意味が違う。ジ・エンドとアネモネは、レントンを望めなかったエウレカの姿でもある。もちろん、遅まきながらドミニクが彼女らを救うのだけど!
「ニルヴァーシュ」という名前、最終回、ジ・エンドの最後のあり方から考えて、完成形というのはつまり、涅槃「煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地。」と思われる。ジ・エンドが壊れるのではなく消えたのも、ニルヴァーシュがエウレカから離れて「悟り」を開いたのも、どちらも形は違えど涅槃だったのではないだろうか。ジ・エンドの場合は涅槃の原義(梵語nirvana 吹き消すこと、消滅の意)から考えて、まさしくという気がする。人間につけられた拘束具(?)のみ残し、ジ・エンドそのものだけが消えていく。「煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態」が完成形とするなら、ジ・エンドの煩悩はアネモネそのものであったと思う。アネモネと一心同体でありながら、やはり別々の存在であるジ・エンドは、アネモネのために変化し、アネモネが独りぼっちではなくなるとわかった途端、塵も残さず消えてしまう。ジ・エンドの変化はアネモネの変化でもあるわけで、ふたりは繋がっていて、けれどやはり別々の存在であるというのが面白い。

気がついたらすごい長さに(しかも文字装飾がほとんどない読みにくさ)。
語れば語るほどいろんな感想が湧き上がってきて面白かったです! すごいなあ、作りこんでるなあ、エウレカセブン。これからも考えるたびに解釈かわりそうですが、とりあえず急ぎまとめてみました。これだけ書き連ねておいてなんですが、まだまだ謎に対しては考えた流れ動きそうです。

at 01:01, 川村, 交響詩篇エウレカセブン

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